今日は
私の8月15日
上に紹介した記事の中に「疎開」という表現を用いていますが、もちろん、今の学生たちには説明なしには理解できない言葉です。この言葉については、今でもよく覚えているエピソードがあります。
前任校に赴任して数年の頃、「新たな過疎問題の展開と対応」という論文を付属研究所の所報に載せたことがありました。自分の原稿は校正を経て何の問題もなかったのですが、刷り上がった冊子の表紙のタイトルには「過疎」が「疎開」となっていました。原稿は執筆者が責任を持ちますが、「目次」についてはスタッフが全員の原稿を揃えてから作成して印刷所に渡したはず。当時の事務担当者は60代の男性、なるほど、彼にとっては「過疎」よりも「疎開」の方がより実体験に近い表現だったのかも知れません。もちろん、所報の表紙には訂正用のタグを貼ってもらいました。 😉
もう一つは、三重県四日市市女性課との因縁。90年代初めに全国の地方自治体ではじめて「女性課」を設置した際、その課題と役割を明確にするための委員会を立ち上げて、私もお手伝いすることに。その時の初代課長であったのがSさん、とてもチャーミングな女性で、彼女の存在が「女性課」の実現に大きな力となったことは間違いありません。その彼女とのやりとりの中で、紀伊長島町(現紀北町)在住のO先生の話題になりました。四日市市在住の方が何故それほど南の町や人に詳しいのだろうかとの思いで質問したところ、「疎開先でお世話になりました」と。その時私は5秒間ほど沈黙してしまいました、というのも、「疎開」という言葉から逆算する彼女の年齢を、目の前の容貌に結びつけることが出来なかったからです。 😯